塾のこと、介護のこと。

プログレスゼミナール

ぼけてよかった?

 


母が今の施設にお世話になって、二年ほどの時が流れました。
最近は、昼間ベッドに横になる日が多くなりました。と、言っても体調を崩しているわけではありません。
聞くところによると、母は日中はなかなか排尿排便をしないらしい。
そして、夜間、おむつをしていても染み出すくらいの大量の尿をするそうです。
と、なると、本人も介護者も大変。そこで、日中も夜と同じ雰囲気を作るために昼食後の何時間か横になってもらうことにしたとか。
そのことにより心も体もリラックスするのか、昼間も排尿・排便起こるようになり、おむつの量も少なくなり、また、安眠も得られるようになったとか。

実は、介護に関しては以前はベッドに手を縛りつけたり、つなぎ服を着せたりすることが容認されていました。けれど、最近は拘束するということは人権に対する配慮がないということで、病院では命の危険もあるので、ある程度認められていますが介護施設では法律違反になるので、禁じられています。
母が入院した時はおむついじりがひどい為、私の了承を得てつなぎ服を着ていました。
次の施設では、拘束はできないので、大判のバスタオルを体に巻きつけて防いでいました。
そして、今度の施設。
ここでも、おむついじりは半端ないのですが、どうしても拘束はしたくないという施設の方針で何も対策はされませんでした。
けれど、母の部屋の窓のカーテンはいつもかかっていません。おむついじりをした後の汚れた手をカーテンになすりつけるので外してしまわれていたのです。
爪の中もどうしても汚れてしまいとても不潔になります。
そこで、ミトンをすることにしました。これも、拘束の一つです。手の自由が利かなくなるから。
けれど、致し方ない場合はOKです。
                  
ミトンミトンをすることにより、おむついじりは、なくなりました。けれど、真っ白なミトンがいつの間にか縁が真っ赤に染まっています。 血? けれど、スタッフの方からは何の連絡もありません。
気になり聞いてみました。すると、母が寝付くとき指しゃぶりならぬミトンしゃぶりをしているとのこと。その際睡眠導入剤の薬を飲んだ後口中にうっすらと残った薬の色がついているのだろうと。それからは、私も頻繁に持ち帰り洗濯をしたので、色素の付着はなくなりましたが、そんなに母はミトンしゃぶりをしているのかしら?と半信半疑。
ここで、話が振出しに戻りますが、夜間と同じ状態と言うことは、当然昼間もミトンは必須。
私も母のミトンしゃぶりを目撃することになりました。
娘が、母親がちゅぱちゅぱミトンを懸命に吸っている姿を見るのは異様な感じがしますよね?
娘の前でおしゃぶりを見られたら普通恥ずかしいのでしょうが、母は気にも留めずちゅぱちゅぱ、ちゅぱちゅぱ。
その時私、つくづく、ああ、おかあさん、ぼけてよかったね!!と思いました。
それこそ、子供みたいな表情でものすごくリラックスして横になっている母。
自宅にいてまだ元気な時に昼間横になっている母を一度も見たことはありません。
結婚した当初からずっと貧しかったので両親とも働きづめ、そして、年がら年中ずっとお金の心配をしていました。当座にお金は入ってるかな、消費税のお金は払えるかなと、認知症を発病した当初も口癖のように言っていました。

今はそんな心配もなく、穏やかに過ごしている。我が子の前でもおしゃぶりをやめない。
身も心もストレスから解放され、まさに無我の境地にまで行きついているかのよう。
このまま、穏やかに余生を過ごしてほしいと祈るばかりです。

無題どじょうすくいのイベント!
似合ってる!!

認知症事故家族免責

 


160320私は学習塾を経営しています。今年度から偏差値60以上の高校に全員合格を目指すべく一斉授業もとりいれます!!と強い決意もブログTOPに書いています。
しかしながら、塾の記事かと思いきや、介護のことなど書いてあると違和感を持つ人も多いでしょう。
けれど、このことに関しては、このブログを立ち上げる時も説明したと思いますが、私も仕事を抱えながらたった一人で認知症の両親を在宅介護した経験があります。とても大変だったのは間違いありません。そして、高校の先生方が塾訪問された時もお互いの介護の話、あるいは、メールでもその話。保護者とも生徒さんの話をしていても、いつの間にか介護の話。塾を卒業した後も、頻繁に認知症のお母さまのことで電話をかけてこられる方もいます。
ここで、不思議なことに気づかれませんか?なぜ、私に相談するの?私は身内ではない。赤の他人。それなのにどうしてかわかりますか?
それは、当事者でしか、介護の大変さを理解することが出来ないからです。たった数時間でさえ介護経験もない身内より、本当に経験した人に相談したり、愚痴を言った方が心が晴れるからです。
正直私が介護している時は周りに相談できるような人はいませんでした。ネットに色々書いてありますが、私に言わせてみれば机上の空論です。実際生の声でないと響きません。ですからネットでも私は介護のプロみたいな人のブログやホームページは開きませんでした。経験者でもなく、ただ教科書通り、マニュアル通りにアドバイスされても、こちらは生身の人間と常に対峙しているのです。マニュアル通りに行くわけないことはわかりきったことです。ですから、私は私の経験を書くことにより、少しでも今介護で悩んでいらっしゃる人の参考にしてもらえばと介護のことも書くようにしています。

今回の列車事故は2007年に起こったものです。認知症の患者が徘徊中に電車にはねられ死亡し、その賠償責任を鉄道会社が遺族側に請求し、一審・二審は遺族側に支払いを命じました。私はこのことにとても憤りを感じました。言葉は悪いですが、「お前らには認知症の家族はいないのか!!もしいたら徘徊する認知症患者を24時間見守ることがどれだけ、不可能かわかるはずだ!一回お前もやってみろ!」と言いたくなりました。

私の例を言いますと、私は塾をしていますから、夜両親のそばにはいることができません。塾をやめれば生活できませんし、私を頼ってきてくれている生徒の指導をないがしろにはできません。幸い自宅の下の部屋が塾でしたので、父が徘徊しそうになると、玄関のカギを開ける音がしますから、生徒を指導しながらも耳を澄ませておき、いつでも止める準備はしていました。また、私の入浴中に出ていく場合もありますから、湯船につかっていても耳は玄関に集中させておきます。開けている!!そう思ったら、バスタオルを大急ぎで巻いて玄関に向かいます。もし、母親がしっかりしていたらいいのですが、母親も認知症です。あてにできません。それどころか、父を探しに行く間、母が火の不始末をするかもしれないという恐れもあります。何度もガスコンロを空だきして、よもやということがありましたから。
また、火事場の馬鹿力と同じ感じで、普段は足元もおぼつかないのに、徘徊するときの父は機敏で力もあります。私の家の前には線路があります。もし、そちらに行ったらと気が気ではありませんでした。昼夜逆転でしたので、父は昼間寝て夜活動します。本当に父が入院する前は睡眠をとるのもままならない状態でした。この事故の方の奥さんは当時、既に80歳を超えておられました。うたた寝をされる気持ちもわかります。きっと、くたくただったと思います。父もそうでしたが、外に出ていくときは、案外正気と言いましょうか、知恵が働きます。周りに誰もいないときに出て行こうとします。この方も、しめしめ、今のうちと思ったのではないでしょうか?結果自分が亡くなることなどは想像はつかないのに、です。悲しいですね。
また、私の場合、母も感情が高ぶったときは、線路に飛び込んで死んでやる!!と言いますから、本当にWで大変でした。その時は目が座り本当にやりかねない状態なので、見張らないといけません。ですから、母が落ち着くまでは、片時も目が離せないのでトイレにもいけません。このような、極限状態でみんな介護しているのです。トイレにもいかず、仕事もせず24時間見守るなんて、どれだけ不可能か経験者にしかわかりません。

ですから、今回の事故は他人事ではありませんでした。よほど、私も証人席に座り、検察官や裁判長に訴えてやろうかと思ったほどでした。最高裁の裁判長は年配の女性でした。思うに、その方の家族にも認知症の方がいらっしゃったのかもしれませんね。ですからこのように当たり前の判決が出たのだと私は思います。
一億総活躍と言いながら、なるべく介護は在宅でと、政府は矛盾だらけです。
今は昔でいう隣組、いわゆるコミュニティーが、とても希薄になっています。私も隣のマンションに誰が住んでいるかなど知りません。
長寿大国になり、暮らしやすくなるどころか、このような事件が今からも増えていくのではないかと案じられます。
何とかならないものかと歯がゆい気持ちでいっぱいですが、とにもかくにも、今回の判決で司法もまだ健全だということがわかり、少しほっと致しました。

プロゼミ 小川

在宅か、施設か。

 


両親を介護するとき在宅か、施設かみんな悩むと思います。
私は、もし、両親が足腰しっかりしていたら、在宅は可能だと思います。
認知症も最初は、本人達も自分がおかしくなり始めていることをうすうす感じているので、その恐怖不安の裏返しで、家族にあたりちらします。けれど、だんだん症状が進むと、その感情もなくなるので、まあ、言葉は悪いですが扱いやすくなります。
ただ、あまりにも足腰が達者だと徘徊するので、ケースバイケースです。

私は、父が徘徊と昼夜逆転に危険行為などがあり、しかも、私一人で認知症の両親を介護しないといけなかったので、在宅は無理でした。
父は施設に行く前精神科に入院させましたが、入院中に肺炎を起こし内科の病院に転院、そのあと、お世話になっていたデイサービスのショートステイにお願いしましたが、また、そこで、誤嚥性肺炎を起こし、再度入院。そのあと、今度は別の療養型病院に転院。
もう、そのころは、体力はなくなり、ずっと車いすで目を閉じたまま。
ところが、看護師さんの話では、夜、覚醒、足腰弱っているのに素早い動きでベッドの柵を乗り越えるとか。病院側は骨折などを気にしていて、早く出て行ってほしいという感じ。しかしながら、父の症状というか行状(笑)を聞くと、どこの施設からも断られました。ようやく、引き受けてくださったのは、私の高校の同級生が勤務していた施設。
一週間以上会議を重ねようやくOK下さいました。
余生は穏やかに暮らしてほしいと思ったのもつかの間、わずか4日で亡くなってしまいました。
最初、あの病院に入院させなければとか、最後は在宅介護をしておけばよかったとか、あとからあとから後悔はわいてきます。
でも、いくら悔やんでもすんでしまったことは、戻ってきません。

ですから、母だけは後悔のないようにと、人工関節の手術をさせて、痛がらず歩けるようにと老健でもリハビリに精を出していたのに、脳こうそく。しかも、麻痺は手術した方という皮肉な結果に。お世話になった老健はとても、面倒見の良いところで、母の異変にもすぐに気が付いてくれて、大事に至らずすみました。
急性期を過ぎた後の病院選びで失敗しました。どうして、人工関節の手術後お世話になった病院にしなかったのかと悔やまれました。その病院の上にお世話になった老健があったので系列の病院のほうがまた入りやすいと思ったこともあり、そこにしましたが、ただベッドに寝かされたまま。人工関節で入院した病院はデイサービスのようなシステムもあり、定期的にトイレにも連れて行ってくれました。尿意は残っていたので今度の病院でもお願いしたのですが、無理の一点張り。冷たい感じの病院でした。いずれにしろ、いつまでも病院にいることはできません。また、建前上老健は自宅復帰が目的。しかし、母の状態はそれは不可能なので、結局施設しか行く場所はありません。次の場所を探すようにケアマネージャーさんから催促されました。

介護に詳しい方はご存知と思いますが、よく、待機老人が何万人と言われていますね。
でも、それは、特別養護老人ホームに限ってのことです。有料は、がらがらです。つまり、金持ちはそれなりの素晴らしい設備の整った、まるでホテルのような施設に入れるのです。
けれど、我々一般市民はそういうところは無理なので、安い特養に流れてしまうのです。
私もその一人。けれど、幸運にも最初入った施設はオープンしたばかりなので、とてもきれいで設備そのものは行き届いていました。
これで、また、穏やかな日常が母に戻ってくると思いましたが、費用が安いなりにサービスは全然行き届いていませんでした。
それは、そこのスタッフがどうのこうのというのではなく、特養というは、規則としてデイサービス併設が出来ないのです。つまり、衣食住は保証されていますが、ただ、それだけ。たまにボランティアの方がいらして寸劇などを披露して下さいますが、それ以外は起きて、食べて、お風呂に入ってテレビ見て、寝ての単調な毎日の繰り返しです。

母の表情は日を追うごとに暗くなってきました。涙が出ました。こんなはずでは、なかった。父に対してできなかった分母に親孝行がしたいのに、このままでは、生ける屍状態。
どこか、有料の施設を探そう。そう決心しました。実は、父も有料だったのですが、交通の便があまりよくないので、塾の授業の準備などに少し困りました。
そして、ほんと、不思議なのですが、父は高校時代の友人が勤めていた施設。母は、幼児教育科時代の友人の義父さんが入居している、施設に入ることになりました。

その施設に入ってからはみるみる元気になった母。飛び切りの笑顔を見せてくれます。
私の毎日の生活はその分とても苦しくなりました。けれど、両親は貧乏のどん底で必死に私たち姉妹を育ててくれました。やはり恩返しはしなくてはなりません。罰があたります。
去年は子供劇団の訪問に感涙。久々のメイクにご満悦。そして、今年は施設内にできた神社で大吉のおみくじ引いて大喜び。切り詰めた生活の中にも喜びはあります。まだまだ、頑張りますよ!!

父の入院

 


父の入院父は穏やかな性格でしたので母のように認知症になっても、暴力的ではありませんでした。けれど、自分が年を老いていることは理解できないようで、若いころと同じことをします。いわゆる年寄りの冷や水です。

一人では、とても運びきれないベッドを2階に上げると言い張ったり高い壁を塗り替えると言って、よろよろしながら脚立に乗ったり。
どういう訳か、電車を買ってくるとか言い出してふらふらしながら自転車に乗り、あげくのはて転倒したり。

そんなこんなで、毎日が危なっかしくてみていられません。父にもリスパダールを処方してもらいました。けれど、母が入院していた病院では、老人という事もあり、とても、量を少なく回数も本当に頓服的に興奮時にと処方されていたのに、父を近くの心療内科に連れて行ったら、倍ぐらいの量を平気で出されました。怖かったけれど、そうでもしないと、何をしでかすかわからない父です。おとなしくさせたほうが得策と、飲ませ続けました。

けれど、やはり、日を追うごとに父は母よりも廃人のようになりました。
周りは扱いやすいけれども、これでは、生きるしかばね状態です。思い切ってやめました。けれど、パーキンソン病のような薬の副作用もでてきて、足元もおぼつかなくなり、母と同じように薬をやめたので元気を回復し危険行為は続くことになります。

結局母と同じ病院に入院させました。MRI検査で「こりゃあ、進んでますね。相当脳が委縮しています」と言われました。父は抵抗することなくすぐに入院しました。

けれど、実はそれまで持病の薬プレドニンを飲んでいたのですがいったん止めてみようということになって中断しました。すると、容体がおかしくなり、持病で一度入院した、総合病院に再び入院しました。私がその病院を選んだのは当時の主治医の先生がまだ、いらっしゃったらデータが残っているから容体がおかしくなったきちんとした原因解明と的確な治療ができると思ったからです。
福岡の中心地にある有名な病院です。

最初父を診察した医師は、「まず、入院した際万が一のことがあったら延命治療されますか」と質問されました。これは、どこの病院でも聞かれることです。でも、その先生の言い方にカチンと来ました。「お父さんとっくに平均寿命超えてらっしゃるから、へたに延命治療してもね」と言うのです。もう、一気に不信感です。そのあと、「主治医の方はもういらっしゃいません。色々な科の先生に聞いてみましたが、今回の原因もよくわかりませんし、病名もつけようがないです。とにかく入院してみましょう。主治医は結局僕が最初に診たから、僕になるんだろうな」と、嫌そうに言うんです。

母が人工関節の手術で入院した福岡南区の救急病院も病棟も劣悪な環境でした。
母のベッドの周りにはガーゼやら、母の片方の靴下や、タオルが散乱。そして、隣の人のコップが母のところに。バスタオルも無くなっていたり。「藤色のバスタオルがありません」というと「ありました」「それは、藤色ではない。茶色」全く色もわからないのかしら?ちなみに塾の中学生に聞いたら殆どの生徒が知っていました。で、落ちていたガーゼのことなどを指摘すると、「すみませーん。おきっぱで」と言うんです。今書いている時もなんかむずむずしてきます。
おきっぱなしのことだと、姪に聞いて初めてわかりました。職場で若者言葉使うなよって感じです。

再び、父に戻すと。父の入院した病棟も似たようなものでした。
入院の際色々なことを聞かれます。入れ歯ですか?とか、一人で食事できますか?とか。これも、どこの病院でも質問されます。嚥下が困難なので、硬い物大きいものは無理です。また、トイレも間に合わなくなり、おむつ必要ですと、一つ、一つ答えていきました。

ある日のこと、私は目を疑う光景に出くわしました。それは、ちょうど食事時、父は車いすに座っていました。見ると、下半身はおむつのみ。太ももむきだしです。たぶんパジャマのズボンを尿で濡らし着替えもなくなっていたのでしょう。でも、もし私なら病衣を貸し出します。人権も尊厳もあったものではありません。そして、食事介助もせず看護師は仁王立ち。
しかも、食事はどうみても通常食。「これって、普通食ですよね」と私がいうと看護師は食事そのものではなく、献立表を見て「真心食って書いてあります。」と澄ましていうのです。どこが?中身みたらわかるじゃないのという感じです。

で、ソーシャルワーカーに医師のこと、看護師のこと相談しました。けれど、これまたなんにもなりはしません。当人たちに言うだけなので、上には届きません。言われてやめるようなら最初からしません。もう一日も早く退院したいと思い父がある程度落ち着くのを待って退院しました。ここでも、驚いたのは、「じゃあ、小川さん、さようなら」と軽く病室前で手を振るのみ。荷物が多く父の膝の上にも大きなカバン。普通ほかの病院は看護師が無理ならほかのスタッフが車に乗るところまで持ってきてくれます。
大きな病院の医師や看護師はエリート意識が強すぎる気がしてなりません。

そのあと、父はまた肺炎をおこしたりして、また、別の病院に入院しました。
そこでも、父は迷惑がられました。夜中の徘徊です。足腰弱っているのにベッドの柵を乗り越えるので転倒骨折を病院側は嫌がるのです。
入浴のあと、私が持参したタオルではなく病院のタオルが紛れていたことがあります。よくよく見ると、足ふき用と書いてありました。認知症で何もわからない父。病院を困らせる父。つい、意識的ではないとしても父をないがしろにしていたのだと、思います。

入院も長くなると老健や施設を探さねばなりません。けれど、父の症状を聞くと、どこからも返ってくるのはNOの返事。
結局私の高校時代の友人がいる有料老人ホームに入居が決まりました。何回も何回も会議を重ねその施設のスタッフの同級生の父親という事でOKしてもらいました。

けれど、入居4日目で亡くなってしまいました。聞くところによると、その施設で血液検査をしたら、ものすごい数値の炎症反応が出ていたそうです。施設に入ってまだ2,3日でしたので多分前の病院の時からではないかという事で、近いうちにしっかり検査しなおそうと思っていた矢先だったらしいです。

死因は結局不明でした。変死扱いになるらしく刑事も来ました。刑事は病院に付き添ってくれていた、施設のスタッフの前で「不審に思うことはないですか?何か言いたいことないですか」と私に聞きました。さすがスタッフの方は感情あらわにされました。「本当はお引き受けはできないほどの方だったんですよ。でも、小川さんがお困りだったし、スタッフのご友人だから了承したのに」と唇をふるわせていらっしゃいました。私は現場にはいませんでした。食べ物を詰まらせたようだったので取り除いた、そのあと居室でおむつ交換しようと連れて行ったら様子が変なことに気付いたと言われましたからそれを信じるしかありません。苦しんではいなかったようなので、それがせめてもの救いでした。

そして、お葬式。いわゆるおくりびとというのでしょうか、最後の身支度をきれいに整えてくれる方々の配慮。「そこは、頭が当たるからもう少し上に」とか、父が生きているかのようにお世話して下さいました。
色々な病院でずっと人間らしい扱いを受けていなかった父が最後に旅立つ時一番心のこもった対応を受けました。
私は、深々と頭をさげてお礼を言いました。

今年は父の三回忌でした。母は父はまだ生きていると思っているし、まだ、バリアフリーが完備されていないお寺なので出席はしていません。私は今残された母に二度と父のような思いをさせたくない、そればかりを願い、そのためにはどんなことでもするつもりでいます。

私が母を入院させた理由

 


私が母を入院させた理由私の両親は共に認知症になりました。

父は穏やかな性格で子供たちに対しても暴力などをふるうひとではありませんでした。
ですから、認知症になってもそれほど最初は困りませんでした。

けれど、母は、もともと明るく人付き合いもうまいのですが、反面わがままで気性が激しい人。認知症になってからは、それがますます顕著になってきました。
気に入らないことがあると、日傘で私を殴ったり、「今から、この家に火をつけて燃やしてやる!」とか、「電車に飛び込んで死んでやる!」とか、叫びだしてそれは、実の親ではありますが、恐怖心を覚えました。

そのころセロクエルという精神安定剤を服用していましたが、興奮が収まらない日が頻繁になり、少しずつ薬の量も増やしていきました。そして、私もまだ最初の頃は、耐えていました。
けれど、これはやばいと思い始めたのは、母が職場に頻繁に乗り込んでくるようになってからです。私は、学習塾を営んでいます。自宅が三階。塾が二階です。

三階のドアがガチャンと開き階段を下りる音が響きます。私も生徒も生きた心地がしません。
そして、塾のドアを開けつかつかと、私のそばに歩いてきます。その頃生徒が10人ほどいたでしょうか。その生徒たちに私を指さしながら怒鳴ります!
「あんたたち!大きくなってこんなひどい人間になるな!この女は鬼だ!」と。
ひとしきり悪態をついたら塾の外には出ていきます。けれど、また、戻ってきて、今度は「お前たち帰れ!」と、生徒のカバンをことごとく取り上げると、階段の下に投げ捨てるのです。
生徒は「殺される!」と、叫んで慌てふためいて帰ります。

私はどんな目にあってもいい。だけど、大切なお子様をお預かりしているのに、もし、母が、何か危害を与えたら申し訳がたたない、それだけは阻止しなければ、何とかしなければとパニック状態になりました。お医者さんの話では、健常者がセロクエルを飲むと、気絶しそうになるくらいの強い副作用が出るが、母のようになってしまうと、もういくら量を増やしても効かなくなるそうです。

その当時の母の状態を相談すると「そこまで来ましたか。入院を考えた方がいいでしょうね」とおっしゃいました。
私もそれしかないと思いました。認知症は治りはしませんが、進行を遅らせたり、周辺症状の緩和は薬をうまく使うと治まります。

しかし、入院させるまでが、これまた大変でした。自分はボケていないし、病気とも思っていません。ですから、だましだまし連れて行かなければなりません。
精密検査を受けると言って連れて行きました。
そして先生から入院して検査しましょうと言っていただきました。
けれど、ちょっと目を離したすきに姿が見えなくなりました。大急ぎで探しましたが、なかなか見つかりません。
ようやく看護師さんが見つけてくれましたが、不思議なもので、いわゆる火事場の馬鹿力と言うのでしょうか、ものすごい力で看護師さんの手を振りほどき、結局タクシーに着払いで乗って自宅に戻ってしまいました。

次は行く時から警戒しそうなのでいとこに頼んでいとこの車で出かけました。
母は外面は良かったので、私以外の親せきの前などはにこやかでいられるのです。
病院に着くとまず、診察室に私と母で入り、診察室の外には屈強な男性看護師さんが二人待機していました。
入院という言葉を聞くと母は興奮し叫びまくりました。「嫌です!帰ります!入院するくらいならここで自殺します!」
母は、看護師さんに両腕を羽交い絞めにされました。一歩も動くまいと、その場にしゃがみこんだ母を引きずるような形で看護師さんが病棟に連れて行きました。
「あなたたち、こんなひどいことをして恥ずかしくないんですか!」と母は、叫び続けました。
引きずられながら病棟に向かう母のその背中を見ると、涙が止まりませんでした。

かかりつけのお医者様に「心を鬼にして母を入院させました」と、私が言うと「違いますよ。優しさですよ。風邪をひいたら治療するでしょう?お母さんも心が風邪をひいたからそのために入院させたのだから鬼ではないですよ。あなたの優しさですよ」と、言ってくださいました。
私は号泣しました。今でもその時のことを思うと涙が滲みます。

母は、約2か月入院しました。リスパダールという薬を処方されて、すっかり穏やかになりました。戻ってきた母を見て、生徒たちも「おばちゃん、もとに戻ったね。ちっともこわくない」と言ってくれました。
また、母の一件があった後も生徒は誰一人としてやめませんでした。母は一階でたばこ屋と駄菓子屋を長年父と営んでいました。生徒たちは塾に来るのは勉強だからちっとも楽しくはないけれど、帰りに100円玉を握りしめて、駄菓子を買うのが楽しみで、塾に通っていたようなものでした。
「おばちゃん、これ、いくら?」「おばちゃん、当たった。アイス、もう一本ね」
とか言って母とたくさんコミュニケーションをとっていました。ですから、認知症になる前の子供に笑顔で接する母の姿がちゃんと脳裏に焼き付いていたのでしょう。
また、お母様方もご理解があったのだろうと思います。

さて、このあと実はリスパダールをやめないといけない時が来るようになります。
薬には副作用がつきものです。怒りは収まり沈静化しましたが、言い換えれば覇気がなくなる。もっと大げさに言えば人間としての尊厳が保たれなくなってしまったのです。
つまり便や尿を垂れ流しても恥ずかしい、そそうをしたとか思わなくなってしまうのです。
ですから、廊下に汚物が度々落ちていたり、母自身の足にも便が付いたままでも本人が平気だったりで大変でした。

両親とも時を同じくして認知症です。仕事もあります。両親の世話をするのは私一人だけです。父も徐々に暴力的になり、徘徊も多くなり仕事をしていても、耳を済ませておかねばなりません。いつ父が出ていくかわからないからです。これからずっと介護の日々は続きます。
とにかく、まず母のリスパダールの服用をやめました。すると、てきめん、さーっともやが晴れたみたいに母はきりっとした顔つきになりました。明るい笑顔も増えました。結果少々気性も戻りましたが許容範囲でした。

母は、後に脳こうそくをおこしましたが、実は病院で検査したら脳に小さな脳こうそくがいくつも出来ていました。幸い当時大事には至らなかったのでしょうが、母の認知症はアルツハイマーと脳こうそくの引き起こしたものの混在型だったのかもしれません。

そのころは、今私が毎日飲んでいるジュネスのリザーブの存在も知りませんでした。
お医者さんの許可を得て脳こうそくを起こされたご家族にすぐジュネスリザーブを何袋か飲ませたら回復も早くとても症状も軽く済んだというお話を聞きました。
認知症予防にもなり脳の血流も良くする豊富なポリフェノールが含まれているリザーブを日常に取り入れることが出来ていたらなと悔やまれます。
けれど、あくまでサプリに過ぎません。過信は禁物。たた副作用が強い薬ばかりに頼るのも危ない。たとえ医者が良かれと思い処方したものでも、疑問に感じれば何もかも鵜呑みにせず、自分の意見をしっかり持つことが大切だと思います。

私がリザーブを知って母に飲ませることができた期間は僅かでした。病院を退院してからは、また、白内障の手術や人工関節の手術と立て続けで。
結局人工関節の手術後老健でリハビリ中に大きな脳こうそくを起こしてしまいました。
ただ、半身が不自由にはなりましたが、一見したら脳こうそく患者には見えないこと。
そして、言語が不明瞭ではなくはっきり聞き取れること。
同じ時期に脳こうそくになられた患者さんの症状と比べると明らかに軽いのです。
その方はベッドに近い車いすで、なんとおっしゃっているかわかりません。
発見も早かったこともあるのかもしれませんが、少しだけでもリザーブを飲ませることが出来たからかなと思ったりもします。

ジュネス&プログレスゼミナール 小川

care_02立ち上がりの練習風景です。できた後のこのにこにこ笑顔。その様子だけ見れば、ただ足が不自由で車いすなんだとしか思えないでしょう。脳こうそくの人特有の顔面のゆがみもありません。

介護のこと

 


care_01これは、まだ、二人とも歩ける頃のデイサービスでの一コマ。永遠にこの状態が続くのが理想。でも、やはり病状は進みます。24時間両親のそばについていられるのならともか く、生活するためには、仕事をしなければならない。多動な父は徘徊します。家の前には 道路に線路。また、トイレに誘導しても、中に入らず窓ガラスを開けそこに用を足そうと する。ちなみにその窓は4階。母は何度隠してもありかを見つけケースの砂糖を平らげる。 グリルを空焼きする。施設に親を預けることをまるで、介護放棄、姥捨て山に親を棄てる 事のようにいう人もいますが、そうではありません。安全な場所に身を置き、憲法25条 の条文みたいですが、健康で文化的な生活を送ってもらいたい、そう思い、施設に託すの です。母は歩けなくなったので、なおさら物理的にも介護の手が必要になりました。

私1人では、お風呂にも入れられません。また、人工関節の手術後主治医から絶対けがを させぬよう言われました。飼いネコのドナちゃんは母によくなついており、頻繁にじゃれ つきます。時折、爪や歯が足首に当たり出血したこともありましたから、これも、1人で 家に置いておけぬ理由の一つになりました。今、母は、穏やかに暮らしています。

他の利用者さんで最初孤立してらして険しい表情だった男性の方、周りに気を遣う素敵な 紳士になられ、私にも優しい笑顔を見せて下さるようになりました。

自分の親御さんを施設に預けることを決して罪なことだと、思わないでください。

あなたが親御さんの幸せを考えて決断されたのなら!!

もちろん、事前にたくさんの施設見学することはいうまでもありません。劣悪な環境の ところもあります。スタッフや利用者さんが笑顔でいれば、まず、大丈夫!!

次回から、私が抵抗する母を、病院に、一時期入れた経緯や父が亡くなるまで色々な病院 で感じたつらかったり傷ついた話などをお話ししていきたいと思います。核家族で育った 私は、両親の介護や、認知症によるさまざまな、問題に初めて直面したわけで、右も左も わかりませんでした。机上の空論とまではいきませんが、やはり実際に介護する側と介 護関係の専門家で、知識が豊富でも、実際介護経験がない人の場合はややもすると、通り 一遍の対応しかしてもらえないことが、多々あります。

幸い私がかかわった方々は、そんなことはありませんでしたが、塾の保護者様や友人の中 には、つらい経験をした人も少なくありません。

そんな時はいつのまにか、介護の先輩?になった私に色々とアドバイス求めたり相談され る保護者も出てきましたし、最近では塾に訪ねて見える高校の先生方といつの間にか、気 がつくと、お互いの介護の話に花が咲いております(苦笑)

不思議なことに身内より分かり合えます。ですから、右往左往していた私が何かヒントを、 今度は、このブログを通し、少しでも悩める方のお役に立ちたいと思います。

合格おめでとう

中村女子高校GIコース(英語重視のコース)
東福岡高校 進学コース

福岡中央高校

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