心の教育

塾のこと

三年前からの、コロナ流行がなかなか終息の兆しを見せないところに、ロシアのウクライナへの侵攻。そして、新たにサル痘の流行も取り沙汰されています。
世の中が知らず知らずのうちにすさんでいっていることも、一つの原因かもしれませんが、最近の子供たちは、「心」がないように思います。
自分本位ではなく、人への思いやり、人の痛みを我がことのように感じて、何か手助けをしてあげたい、そういう思いがとても希薄になったように、思います。
また、いわゆる性善説、人間の本性は善である。この考えが日本では一般的です。一人一人性格や学力に違いはあるものの、一般常識における善悪の区別はみんながついていると私は思っていました。
けれど、どうもそうではなかったことに、世間のみんなが衝撃を覚えた誤送金問題。
色々と悪い状況が重なって、ある男性の口座に4630万円という大金が振り込まれてしまいました。振込先は手違いを詫び、返金をお願いしました。田舎の町です。多分、泥棒や殺人などの事件など皆無であったであろう田舎町です。ですから、当然と言えば当然、性善説の元、素直に返金に応じてくれると思っていたのに、そうではなかった。
このことについて、生徒達に問うてみました。
すると「返さない。向こうが、ミスして振り込んだのだから、向こうが悪い。当然、もう、自分の通帳に入金されたのだから、自分のもの。自分のものを返せとは、そんな理不尽なことはできない」とある生徒が言いました。愕然としました。それは、そもそもはあなたのおうちの人やみんなが汗水たらして働いたお金なんよ、税金だから。いずれにしろ、人のお金なんだから、間違って入っていますよと言わなくてはと言っても頑として自分の意見を曲げませんでした。また、国語の文章の中で、「さすがに、それは、はばかられた」というのがあり、憚る、の意味を説明するために、ある例を出した時のことです。
友達の家に招かれて、たくさんお料理が出されて、そこのお母さんが好きなだけ召し上がれと言ったとする。友達は全員で10人。色々なお料理がある中で、ステーキは10枚だった。
あなたは、何枚食べるか?と聞いてみました。当然私は、いくら好きなだけ食べていいと言われていても、ステーキの枚数は人数分だから1枚と答えると思いました。ステーキが大好きで何枚も食べられるが、やっぱり人数分しかないから遠慮するよね?そういうのを、はばかる、っていうのよと、教えるつもりでした。
でも、返ってきた答えは「何枚でも食べるよ。早いもん勝ちやろ?だって、好きなだけ食べていいって言われたんだから」でした。全員の生徒ではありません。それは、人数分しかないから、平等にという答えが大半でしたが、一人でもそういう気持ちを持っている人がいたのは、悲しいことでした。
そして、極めつけは、今のウクライナとロシアのこともあるし、では、人を殺してはなぜいけないのかを、聞いてみました。
これは、以前、筑紫哲也さんがやっていたニュース番組で若者との討論会の時、一人の青年が作家の柳美里さんに投げかけた質問です。一瞬スタジオが凍り付き柳美里さんが返答に困ったシーンが今でも焼き付いています。その頃か、それより前か、今では、当たり前のようになってしまった、人を殺すこと自体が目的の殺人が初めて起きた時だったように記憶しています。若者が、赤の他人の老女を殺しました。理由は人を殺してみたかったでした。センセーショナルな事件でした。それから、今度は中学生が小学生をビルの屋上から突き落としたり、小学生が同級生を学校内で殺したり、兄が妹を殺したり、親が子を子が親や祖父母を殺したりと、とにかく今までとは想像を絶するような殺人が次から次へとおこり、今でもそれは、続いています。その、質問に殆どの生徒が「う~ん」と考え込んだのにまず驚きました。もしかしたら、数学のようにきちんとした正解があるのだと思ったのかもしれません。間違えたくないと思ったのかもしれません。でも、ある子は「えっ? 殺したらだめなの?」と言いました。また、「う~ん」と言った子も動物は殺しあうのになぜ人間だけダメなんだろうとは思うといいました。

柳美里さんは、あの時どうして返事に窮したのかと私は、思います。
人の人生は一度だけ。大切な命を何人たりとも殺めてはいけないし、被害者家族も加害者家族もつらい思いを抱き続けることになる。以前カラスが死んでいるのを見た生徒が、カラスとか生きてる意味ある? と聞いたことがあります。確かに生ごみはあさるし、嫌われ者のカラスです。でも、なぜか悲しかった。また、TVのCMで最近目立つのが優秀な人材を得るためのツールを紹介している会社の広告です。確かに高校の先生方もぜひ、優秀な生徒さんを我が校へと仰います。でも、よくよく考えていくと、では、優秀でなければ、生きる価値はないのか?上記したように、赤の他人の老女を殺した青年は、若い人は前途があるから、老い先短い老人なら誰も困らないだろうと思い年寄りを選んだと供述しています。
今、私の母は91歳。食事も摂れないようになり、体重も減少、そろそろ40キロ切るのではないかと思われます。点滴で栄養補給していますがかかりつけ医から、そろそろ御看取りも近いと思われますと言われました。コロナ禍でずっとリモートの面会でしたが、施設の方のご厚意で直接面会できるようになりました。認知症ですから私のことは勿論わかりません。入所当初はLサイズのパジャマもぶかぶかで、足を触れば骨そのものです。無理な延命治療は望みはしませんが、それでも一日でも長く生きていて欲しいと思います。サイズを落とした介護もしやすいパジャマを注文したのが、今日。届くのは3日後。何とか、そのパジャマに袖を通してほしいと願うばかりです。

今回は、ちょっと、話があちこちとんで、長くもありますが、読んで下さいませね。
小学校や中学校では、道徳の時間があります。でも、みんなどう答えればいいかは知っています。中学生ともなると、内申書のこともあるし、心の中では👅を出しているかもしれませんが、優等生の答えを用意します。そして、実は私も悲しいかな、そう指導します。
先生が喜ぶ答えを出さないと合否に関わる可能性も出てくるからです。
ですから、私もいけないのでしょうが、家庭でも、たぶん、「心」人としての有り様についての話などはしていないと思います。殆どの家庭が共働き、子供たちは塾も含めたくさんの習い事に部活。一緒に食卓を囲むことも少ないでしょう。学校でも、道徳は教科として教えるだけ。いちいち、一人一人に目を向ける暇もないだろうし、子供達も本心は隠している。

そこで、私、考えました。塾は勉強をしにくるところ、そして、成績を上げるところ。だけど、それだけではダメなんだと。予想だしなかった私の質問に対しての生徒たちの返答に私は驚愕しました。
そして、よし!! 家や学校で学べないなら、塾で「心」の教育をやろうと!!
そもそも、「心」なんて教育するものではないですよね?
例えば、親御さんが電車の中で席を譲るのを見たり、あるいは、むごたらしい戦争の映像などを見て涙する親御さんのそばで、自然に育っていくものだろうと思います、本来は。
でも、今は、それが難しい。日々の生活に追われ家庭の団欒をとることも少なくなってきていると思うのです。「宿題はした?」「明日も朝練あるんでしょう? はやく寝なさい」くらいの会話で精いっぱいではないでしょうか? ゆっくり膝を突き合わせて「いいか、人というものは・・」なんていう時間はないでしょう。同じ膝を突き合わせて話すとしたならば、「いいか、このままでは行きたい高校には行けんぞ」くらいが関の山でしょうし、それを責められやしません。私もテスト前はとにかく「いい、絶対ここは100%出るからね!覚えてよ!」と、声を枯らしながら必死で指導します。塾ですから。
核家族になり、地域のコミュニティも今はほぼないのも「心」が育たない一因だと思います。おじいちゃんおばあちゃんがいて、お節介な近所のおばちゃんやおじちゃんがいて、みんなで子供を育てていた頃とは違いすぎます。今は、「心」すら、教育する外はないのです。
それを私は怠ってきたという自責の念があります。どうしても塾の役目は学力をUPさせることですから、一番大切な人の心を教えることはしてこなかったという反省があります。偏差値の高い高校に合格した子が果たして、とてもいい子かどうかなんてとこまで考える必要は本来はないのかもしれない。でも、それではダメなんだと今私は痛切に感じています。ステーキを何枚も食べると言った子に「10人お友達がいるでしょう? ほかの食べ物はたくさんあってもステーキは人数分しかないのよ。だから、自分が多く食べたら食べられない人が出てくるやろ?平等にお友達とわけないとね」と言ったら、初めて合点がいったように「ああ・・」と頷きました。
今回、普段は案外自分勝手な感じの子が「1枚しか、食べんよ。だって、人数分しかないんやけん」と言った時はちょっと感激しました。そういえば、この子は、とてもたくさんの友達がいますし、笑顔が絶えない子です。まあ、「いや、それに、何枚も食べられんし。おなか一杯になるもん」の落ちはありましたが、ある意味思いがけないいい答えだったので救われた私でありました。

プロゼミ 小川

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