母が亡くなりました。

介護のこと

母が亡くなりました。
このブログでは、塾のことと、介護のことも、書いてきました。
介護に関しては、私自身が色々悩んでいた時、随分と自分の介護の話をされていた方々のネットのコメントに励まされてきたので、及ばずながら私も、今悩んでいる方のお力になれたらと、綴ってきました。
ともに認知症であった両親の自宅での介護⇒入院に至る事情⇒そして、施設入所までの経緯など。
父の最後は看取ることはできませんでした。ロングのショートステイという、施設側の配慮で、本来ならば短期間のショートステイをずっと延長してくださり、それなりに順調に過ごしていたのですが、誤嚥性肺炎になり入院。足腰も弱っていたし、認知症がひどく、その頃母も自宅でみていたので、父は施設にお願いしようと、リハビリ病院を退院後高校時代の友人が勤務していた施設に入居させました。それから、わずか4日後に息を引き取りました。その時は突然で、私も塾をしていて、連絡を受け途中で生徒を帰し、大急ぎで搬送された病院に駆けつけましたが、既に亡くなっていました。
母の時は、お医者様から発熱があったので、pcr検査や肺のレントゲンを撮ったら、検査の結果陰性でコロナ感染ではなかったが、父と同じく誤嚥性肺炎との診断でした。
いわゆる、余命をお聞きしたら、今晩かもしれないし、数日かもしれないとのことでした。多分前回のブログで、そのことは書いていたと思います。
5月末のことでしたから、よく頑張りました。
私にとって、今回は介護ではなく、その後に続くもの、看取り、の、勉強(?)をしなくてはいけませんでした。誤嚥性肺炎ではありましたが、もう、老衰でもあったので、決して元気になることはない。徐々に命の炎は消えていく。それは、間違いない。けれど、それがいつなのかもわからない。
お看取りは近いかと思われますとお医者様に言われた時から、私の毎日の施設通いが始まりました。思えば、コロナが流行してから、リモートでの面会しかかなわず、本来ならもっと母とじかに接することができたのにという思いから、何とか失われた日々を取り戻したいという気持ちもありました。正直毎日の施設通いは、くたくたになりました。施設のスタッフが、私達もいますから、無理しないでくださいね、娘さんが倒れたら何にもなりませんよと、声をかけてくださいました。よほど、疲労困憊していたのでしょう。けれど、今日はきついから行くまいと思って行かなかった時に、万が一のことがあったらと思うと、一日も休むことはできませんでした。家では、トイレにもお風呂にも携帯電話を持っていきました。着信音がすると、胸がいつもドキッとしました。真夜中に電話があったらどうしよう、と、なかなか寝付けず朝を迎えることもありました。ああ、今日もまだお母さんは生きているんだなと、ほっと、胸をなでおろし、また、バタバタと支度して施設に向かいます。
目を開いているときもあれば、閉じているときもある。呼吸が乱れていない時もあれば、ハアハアとしんどそうな時もある。息苦しそうなときは、じゃあ、また、明日来るねと、ドアの近くまで行くのですが、また、枕元に戻りを数回繰り返します。そろそろではないかと言われてから、二週間ほど経っていたでしょうか?
明らかに、呼吸が乱れて酸素量も落ちていました。その晩から、酸素マスクをつけ、点滴をしようということになりました。初日酸素量は1リットル、翌日は1.5リットル、そして、次の日は突然5リットルに跳ね上がりました。もう、気が気ではありません。私は、看取り、誤嚥性肺炎、点滴、酸素マスクなどのワードを入力して、ありとあらゆるネット検索をしました。
あるお医者様は、はた目には苦しそうに見えても、実は脳内に酸素が行き届かなくなると、二酸化炭素が増えるが、結果、恍惚状態になり本人は幸福感が増してくる。だから、酸素マスクをつける必要はないと説明する。また、点滴を続ければもう血管がぼろぼろになり、尿量も少なくなれば、水分を排出できず、体中がむくみ、却って苦しい思いをさせると見解を述べるお医者様もいる。

親戚も、点滴を中止してくれと頼んだ。中止して4日目に息を引き取った。いつまでも点滴のみで意識もないまま生きながらえることが、果たして本人の望みだろうかと考えたといいます。

私も大いに悩みました。けれど、主治医が、お母さまが苦しまれず穏やかな最期を迎えられるように、酸素投入と点滴をしましょうとおっしゃったので、様々な意見があるかもしれませんが、私はそれに従うことにしました。酸素は一旦3リットルに下がり、息遣いも普通に戻り、表情も穏やかな感じでした。しかも、今まで処方されていた血圧を下げる薬や睡眠導入剤などを一切やめたことで、反対に脳がクリアな状態になったように見受けられました。
夜間スタッフが母のお世話をしていた時に「ありがとう」と声をかけてもらったと涙ぐんでおられました。点滴は殆どが水分のみでカロリーも、缶コーヒー1本分くらいなので、体重・筋肉はみるみる落ちていきました。足は、骨と皮状態。まるで骸骨のようでした。それでも、母は生きています。苦しい様子を微塵も見せず生きています。時折薄く目を開けて私を見つめることもありました。

けれど、とうとうその時がやってきました。7月3日の朝危篤の知らせを受けました。
表情は穏やかなまま。けれど、呼吸はとても浅く途中無呼吸状態にもなりました。
パジャマの一番上のボタンを私は凝視します。息をしていたら、微かにボタンが動くのです。
妹に連絡をしました。姪達も妹からの連絡を受け施設に向かいました。妹や姪達が到着したのは夕方でした。母の酸素量は健康な人と同じくらいの数値を示し、時折閉じたままでも眼球が動くのがわかりました。耳も澄ましている感じでした。
看護師さんが、すごい生命力ですね、昼まで持たないと思っていましたと、仰いました。
そして、長丁場になるかもしれないので、途中で休めるようにと、ソファーを部屋に入れてくださいました。姪の一人は看護師なので、脈をとったりして、あと、2・3日は持つかもしれないねと、言って、妹家族は帰っていきました。
ベッドわきでスタッフさんとほんと頑張りますよねと、話していた時、母が最近発していた、あ~とか、べ~とか言う声が聞こえました。また、あっかんべ~って言ってると笑いながら、ふと、ボタンを見ると、動いていません! 妹たちが帰ってから数分後の出来事です。
施設の看護師さんが胸に聴診器を当てて静かにおっしゃいました。
「動いていませんね。止まっています。」と。
なんとも、あっけない、そして穏やかな最期でした。
「皆さんを待っていらっしゃったんですね。」とスタッフの方が言われました。ほんとにそう思わざるを得ませんでした。

92歳になっていました。6年間お世話になった施設。たくさんの写真を残して下さっていました。小川さんは、とても感情豊かでよく笑うし、感激したら号泣していました、スタッフが困っていると、大丈夫よといつも声をかけてくれていたと言ってくださいました。
また、福島の復興応援ソングの「花は咲く」をBGM代わりに施設で流していたところ、すっかり母が歌詞を覚えてしまったとも聞きました。
要介護5という最高レベルの認知症の母がですよ!
施設に預けることを未だに介護放棄だとか姥捨て山だとかいう人もいます。けれど、この少子高齢化、徐々に考え方もかわりつつあります。CMでもそういう類のものが多くなってきています。賛否両論あるかもしれませんが、私は母の施設での6年間はとても幸せなものであったろうと思います。
毎年誕生日会も開いてくれて、写真付きの色紙を作ってくれます。母は施設長が大好きで、彼と一緒に写っている写真は、まるで乙女のようです((笑)
今でも、無意識に、アッ、携帯!とトイレにまで持っていきそうになります。そうだった、もう、電話はかかってこないんだと、なんだか少し寂しい気持ちにもなります。
でも、なるべくあまり考え込まずに、これからは、夏休み、ビシバシ、受験生を鍛えていくべきエネルギーをチャージしていくことに重きを置こうと思います。
今年の受験生はまるまる3年間コロナ禍で過ごしてきたので、通常とは違う相当の覚悟がお互い必要になるだろうから・・・

プロゼミ  小川

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