塾のこと、介護のこと。

プログレスゼミナール

教育虐待

 

最近、父親が、小6の我が子を刺殺したという、事件があった。
私立中受験に向けて自宅で父親が勉強を教えていたのだが、なかなか成績が伸びない。
勉強量も足らない。厳しく厳しく何が何でも名門私立中に合格させるべく、これだけ教えているのに自分の思い通りの成果を出せない息子に、父親は絶望し、腹も立て、刃を向けてしまった。
そのニュースの後にも同じような理由で、我が子を引きこもりにしてしまった父親がいるという話も聞いた。

こういったことは昔からあったとは思う。親や教師が、教育・しつけの一環として体罰をふるっても認められてきた時代だ。その時代に生きてきた両親に育てられてきた子供が今度は親となり、同じように我が子に接する。ごく、自然の成り行きだ。自分もそのように教えられしつけをうけ、いい学校、いい会社に行ったのだ。だから、我が子にもそうなって欲しい。そうなるべきだ。いや、そうなるに決まっているという、強い思い込み。
しかしながら、今の子供は塾で指導していても思うのだが全然堪え性がない。
昔はこうだったんだよと、両親やベテラン教師に言われると辟易として、自分はそうなるまいと思っても実際やはり、同じことを、生徒に言っている自分がいる。
怠けている。楽な方楽な方に逃げようとしている。臭いものにふたをして、目を背けようとしている。
いらいらするし、腹が立つし、なぜわかってくれないのだと、地団駄を踏む思いも度々だ。
でも、あの、有名な柔道家山下泰裕が以前言っていたのだが、自分は厳しく指導された。ナニクソ!の精神で歯を食いしばって頑張って、オリンピックでも金メダルをとれた。けれど、今考えてみると、自分は指導者からの叱咤激励に対し、耐えうる根性を持っていた。今、同じように今度は自分が弟子を指導しても、それについてこれる人間がごくわずかであることに愕然としたと。そして、学んだ。人は自分とは違うことをと。

私も、同じようなことを思う。負けるもんか、見返してやる。逃げるのはいやだ。
だから、私の思いにこたえられずやる気のない生徒には、本当に腹が立ち、根性なし!と罵倒したくなる。
けれど、なかには、本当にわからない子もいる。何度教えても問題の意味が理解できない。一つ覚えたら一つ忘れるの繰り返しの子供。はなから、やろうという気の起きない子。
となると、私は考える。 ああ、この子は普通科より工業科がいいかな。この子は、この高校には受からないな、一つか二つ下げた方がいいかなと。
最終的には高望みしても正直最大値、脳内のキャパシティーは、各自差があるのだから、それを認めてあげなければならない。やらばできると親は信じたい。私も信じたい。けれど、やればできるという考え方のレベルが本人のそれと違うなら、もう、そこは綺麗さっぱりと、切り替えねばならない。
成績の良さと、その子の人間性は違う。成績が良くても悪さをする人はたくさんいる。
有名大学に行っても殺人を犯す人だっているのだ。
ところが、何が何でもペーパーテストの点数こそがすべてだという凝り固まった偏見を捨てきれないと、こういった悲劇を招いてしまう。
子どもは親の所有物ではない。
子どもには子供の人格がある。
ところが、親の中には、こどもの出来不出来がそのまま自分の出来不出来に関わってくると思い込む人もいるらしい。
「まったく、うちの子ったら、何回言っても勉強しないわ。でも、知ったこっちゃないわ。私は私。子供はこどもで、別個の人間なんだもん。とにかく、人様に迷惑はかけないこと。思いやりの気持ちを持つこと。ある程度の一般常識、生活習慣さえ身に着ければそれでいいわ」と、考えられる親になれば、こんな悲劇は生まれなくなるだろうと思う。

プロゼミ 小川

子どもの日

 

子どもの日
今年は10連休。
令和の時代が始まる。

毎年日本の出生率は低下の一途をたどっている。
その反面世界各国では出生率こそ増加しているが平均寿命は延びることのない貧しい国もたくさん存在している。
私はなぜだか最近TVなどでその子供達のいたいけな姿を目にすると、とても心の痛みを覚える。昔から、その痛みを持ち合わせてはいたが、だからといってその子供たちの為になにがしかの寄付をしようなどとは、思いもしなかった。それどころか、こっちが寄付してほしいくらいだと、どこか醒めていた。
けれど、今は違う。
昔よりも確実に収入は減っているのに、何かしてあげたいというう気持ちに突き動かされる。
だから、わずかではあるが、国境なき医師団とユニセフに毎月寄付をすることにした。

自分の心境の変化の一因は、今の塾生(いや、日本の大半の若者たちにも言えること)にあるような気がする。
刹那的と言おうか、他人のことには無関心すぎると言おうか、表情に乏しい子も多い。
弱いものに対する慈しみの眼差しも持っていないが、強いものへの反骨心、闘争心も、何もない気がする。
そして、そういうこととは裏腹に必死で生きようとしている子供達や、学校に行きたくても行けない子供達、食事もろくに出来ない子供たちを見ていると、いてもたってもいられなくなり、少しでも寄付をしたいという思いに至った。
なんだか罪悪感さえ覚えてしまったのだ。
電車に腰を下ろすと一斉にスマホ。
コンビニやファストフードで買った軽食をむさぼりながら目の前にお年寄りが立っていてもお構いなしに、友人たちと馬鹿笑いしながらスマホをいじり続ける。
多分、そのことの何がいけないのかもわからないだろうし、言ったところで理解もできないだろう。
だからこそ、私は、尚更身につまされる。この子たちと両極端にある子供たちを微力ながらも助けてあげなければと。

子どもの日。
世界中の子供たちに幸せになって欲しい。普通に食事して、普通に学校に行き、病に侵された時は病院に通える。そんな当たり前のことを当たり前に出来るようになってほしい。そして、この当たり前を当たり前とも思わない、今の子供達がいつかは、そのことに感謝して、そして、自分達も及ばずながら困っている人々を助けてあげたいと思うことができるような大人に成長して欲しい。
叶わぬ願いだろうか?
でもそれでは、あまりにも悲しすぎる。
みんなを信じたい。

プロゼミ 小川

詐欺の子

 

最近NHKで実話をもとにしたドラマが放送された。
オレオレ詐欺に加担した、少年たちの証言をもとに構成されていた。
所謂、受け子と呼ばれる役をやらされていた、いや、やっていた人間の中には、中学生の男の子もいた。
気楽にお小遣い稼ぎができることに魅力を感じたのか?
そうではないようだった。考えてみると、オレオレ詐欺は一人ではできない。そこに、必ず仲間がいる。その子は、そういう仲間たちと一緒にいること、そのものが楽しくてしようがなかったと言う。
その子の家は、共稼ぎか、あるいは、母子家庭か、定かではないが、家に帰ると妹はテレビゲームに夢中。テーブルの上には母親からの置手紙。
「焼き肉ピラフあるから、食べてなさい」母親が働きに行く前に作ってくれているのか?
いや、何のことはない。冷凍庫にぎっしりと詰まっているピラフを電子レンジでチンするだけだ。その子は、詐欺仲間たちと買ったスナック菓子や飲み物をワイワイガヤガヤ言いながら食べる方が楽しくてたまらない。さみしさを埋められるからか。
ただ、我が子を思いよろしくお願いしますと頭を下げる老母に対し、徐々に罪悪感を募らせていく。そして、自ら警察に捕まるべくわざと、ドジを踏む。そして、芋づる式にほかの仲間も捕まっていく。
一人の青年は弁護士に冷めた口調で言う。親に虐待されたのか?に対する答えだ。暴力よりも辛かったすよ。先生、お前はランドセルが似合わないなんていう親います?
ドラマの構成上、現実に罪を犯した人の証言やインタビューも途中で入るので、きちんとした脚本はないから、問われた弁護士が無言のまま、その場面は終わる。
また、別の捕まった青年は、家が貧しく詐欺を働いて得たお金はそっくり、母親に仕送りする。あまりにもの大金に母は訝しさを覚え、一円たりともお金には手を付けなかった。
そして、テレビのニュースで息子の友人が捕まったことを知り、自分の息子も仲間だということを確信する。母親は詫びる。貧乏な家に生まれた我が子に何もしてあげられなかったと。そして、返して来いと貯金通帳を渡す。息子は、警察に出頭して、裁判が始まる。検事から詰め寄られる。あなたは、自分の境遇を不幸だと思っているかもしれない。
けれど、あなたと同じような境遇の人がみんな犯罪者になっていますか?
そうではないでしょう? 辛い境遇の中、貧しい中、みんな必死で努力して頑張っているんですよ。そして、真っ当な職に就いているんですと。
息子は言う。「うるせえよ。みんながみんなそうじゃないんだよ。やらなきゃと思ってもできないやつもいるんだよ」と。
検事は、「は?」と小馬鹿にした感じで言うと、またもや同じことを続ける。
考えれば、検事や弁護士になる人たちである。優秀であったに違いない。貧しくとも十分奨学金ももらえ学問も続けられてきたはずだし、努力も惜しまなかっただろう。
だからこそのごもっともな意見なのだ。きっと、犯罪に手を染める若者の気持ちなど分かるはずもないだろう。
私は、涙が出てしょうがなかった。
私も同じことを生徒たちに言っている気がしてならない。
なぜ、宿題をやってこない。なぜ、頑張って問題を解こうとしない。もっと、努力をしなさい。小学校で習ったでしょうと。
言われた生徒は何も言えずただうつむいているだけ。或いは、泣きそうな顔で訴えかける。
「先生、聞いても分からないんです。だから、授業でもさっぱり何を言われているかわからなくて」と。
頭の中で筋道を立てながら問題を解く。実際条件をノートに書いてみて、それをもとに思考する。こちらにとってはそれが至極当然のことであっても、やはり偏差値の低い人はそれができずにいるのではないか。偏差値は努力次第でいくらでも上がるは幻想なのかもしれないとも思う。
塾を経営しているのだから、生徒たちの成績を上げることが使命には違いないが、今回のドラマを見て考えさせられた。
みんながみんなじゃないんだよ、やりたくてもやれなくて、どうしようもなくて……

新学期がまた始まる。少しこれまでとは目線を変えて生徒たちに接してみようと思う。
そして、ほんの少しのことにも「頑張っているね」と声掛けをしてあげようと、今の段階では決めている。
どうなることやら(笑)

類は友を呼ぶ

 

「類は友を呼ぶ」
私の好きなTV番組に「あいつ、今何してる?」という番組がある。
有名人たちのかつての友人の今を追跡する番組だ。
そして、時折有名学校を卒業した人たち(芸能人ではなくあくまで素人さん)の現在が放送される回もある。
最近は福岡県下TOP高修猷館高校の卒業生の今を追跡していた。
修猷館と言えば偏差値70越え。福岡市では、福岡高校・筑紫丘高校と共に御三家と言われている。北九州を入れれば東筑。この高校はまさに文武両道。甲子園にも何度も出場しており、また、名優高倉健さんの母校としても知られている。ちなみに私の姪も東筑。
ここで、姪の話を出すにはまあ、理由があります。

さて、話を戻そう。
その修猷館で長年教鞭をとっておられる先生が、一人の学生の名をあげました。
天才だった。円周率は確か300桁まで覚えていましたと。
番組がその学生の現在を追跡した結果、アメリカ在住。NASA勤務だった。
ゲストたちは一様に「はあ!すげえ~」と感嘆の声をあげていた。
彼は幼い頃からとても数字に興味があったらしく、幼稚園の頃は、友達と、倍数をどこまで言えるか競走したという。
2・4・6……とずっと続けて4桁か5桁まで行った記憶があると。
そして、その友達は現在は外科医らしい。
「はあ、やっぱりね~」と、またもやゲストが感心する。
まさに類は友を呼ぶである。
私がこの話を中学生にしたら、「ナ、ナサ?」とA君。
「πで十分」と、B君。
「倍数言えたら外科医になれるんですか?」とCさん。
「そんな遊び全然おもしろくない」とDさん。
もう、返す言葉がなかった。つまり、その、知的好奇心が後の人生に役立つのだということを私が言いたいのだということに彼らは考えが及ばない。
まあ、一人の生徒はそれでもNASAを知っていたから、少しは安心したのだけれども。

さて、ここで、東筑の話を。
昨年私は脳腫瘍摘出術を受けるべく、日赤に入院した。
私のいとこは、それこそ、修猷館卒業後九大医学部に進み、今は開業医となっている。
両親の入院の時などは色々相談に乗ってもらっていたが、今回は私自身。
すると、脳外科に知り合いはいないけれど、日赤の院長は九大で同期だった。一応よろしく頼むと電話しておくよと言ってくれた。
院長は、わざわざ私のベッドに来てくれて、腕のいい先生が執刀してくれるから安心してくださいと、おっしゃった。で、いとこが、もしかしたら姪家族が北九州に住んでいることを事前に話していたのかもしれない。「私は、東筑なんですよ」と院長の方から話された。
「そうですか! 私の姪も東筑なんですよ」と、私。なんでも北九州には、腐っても鯛ならぬ腐っても東筑という言葉があるらしい。
また、私のリハビリを担当してくれた男性は我が母校福岡中央出身だった。「先輩!患者さんで僕初めて先輩に会いました!」と、声が弾んでいました。
見ず知らずの人間同士が卒業した高校が同じということでこんなにも距離が縮まり、お互いを認め合いお互いの母校に誇りを持てるということは、とても素晴らしいこと。

朱に交われば赤くなるという言葉もある。
教養を身に着け知的好奇心を持ち合わせている友人がいれば、自然と自分自身も成長していくかもしれない。
しかし、テスト前に部活もないし、どこか遊びに行こうぜと、勉強そっちのけで外出したり、アイドルの話で盛り上がったり、スマホで夜遅くまで音楽聞いたりして、それを楽しいと感じてしまう友達関係では、そこに何の生産性もない。
それに、いち早く気づくのは誰だろう?
一人でも、気づく人が現れれば、そうか、そうだよな、今、自分たちがすべきことは、こんなことではないはずだと、後を追う生徒も出てきてくれるかもしれない。
いい意味での、類は友を呼ぶ・朱に交われば赤くなるという諺を私が使える日が来るかもしれないと、淡い期待を抱こう(笑)

プロゼミ 小川

合唱コンといまどきの家庭環境

 

毎年11月は、中学校では合唱コンクールが開催される。
10年ほど前までは、生徒たちが一丸となり、朝練などを行い、その後は焼き肉店やカラオケで打ち上げというのが定番だった。
打ち上げの日が塾の日と重なるときは、私と生徒たちの攻防が始まる。結局私が折れてしまうのだが。
中3などは、まさに追い込みの時期ではあるが、みんなで頑張ったという達成感を打ち上げで味わいたい気持ちはわからないでもないから。
しかし、最近の生徒たちは違う。
とにかく醒めている。
前回のブログで書いた動物園状態のクラスでは殆どの人が練習に参加しないらしい。個人主義というよりエゴ、つまり身勝手さが蔓延している。
みんなと協力する気持ち、大切さなどが、段々わからなくなってきている。
自分さえよければ、他人はどうなってもいいという人間が多くなっている。

それは、家庭においても昔に比べ個人主義が目立ち始めていることに要因の一つがあるようだ。
一緒に食卓を囲まない。一家で何かをするわけでなく、個々が自分のやりたいことに没頭する。一昔前の一家団欒などがなく、家族間も希薄になっているようだ。
ただ、今は、共稼ぎの家庭が多い。十分な家計であるのに、母親が働いているという家庭はごく少数だろう。やはり、生活のために夫婦とも働かなくてはいけない家庭が大半を占めていると思う。
また、子供が中学になり部活にでも入ろうものなら、休日も一緒には過ごせないことが多くなる。平日でも自宅に帰りつくのは7時過ぎることもある。そして塾に行けば、持ちたくても親子の会話、一家団欒も必然的に無理。だから、仕方なく個人で行動しなければならないことも否めない。とにかく、世知辛い世の中だ。
また、以前では考えられないことだが、中3の社会公民で、日本の年中行事を習う。
なにゆえ、学校で習うのか?
つまり、お正月だから、ひな祭りだから、端午の節句だから、だから、何かするの?
それがどうした?という感じなので、子供たちが何も家庭で学ばなくなってきているようなのだ。
ある生徒は、おぞうに? 何、それ? 象を食べると?と、まじめな顔で尋ねてきた。
その親御さんは、私お雑煮きらいですからとおっしゃった。それは、それで構わないと思う。けれど、そのこととは別に日本古来の伝統文化は伝えていかねばならないのではないだろうか?
だからこそ、国もわざわざ義務教育の中で教えようと躍起になっているのだ。
今は、本来の意味もわからないままに、ハロウィーンなどでバカ騒ぎする若者が増えている。ゴミも散らかしっぱなし。人や物に危害を与える。当然のモラル、ルールがなぜここまで守られないのか? きっと、幼いころから、人に迷惑をかけないことや、公衆道徳は守らなければならないことなどを、家庭でしつけてもらっていないのだろう。情けない限りである。
また、西洋文化の方が地位が上だという誤解もあるのではないか?
しかし、海外に留学すると、まず日本の文化について、海外の人はたくさん聞いてくるらしい。中には、日本人より日本の文化や歴史に詳しく、当の日本人がしどろもどろになって、返答に困ることもあるとか。
我々の世代が考える一般常識が、ことごとく最近は覆されるので、こちらも変わらなければいけないのかとも思う。だが、決して迎合してはいけない。
人として何が大切かの中身が時代で変わるはずはない。
古臭いと言われても、ウザがられても、人の道は説いていかねばならないと思う次第である。

プロゼミ 小川

1 2 3 11